漢方

中医学から日本漢方へ枝分かれしていく契機

2018/10/13

外来思想が日本国内に入っていくうちに、中身の変質が発生する日本思想史恒例イベントというのがあります。

このイベントが起こるのは外来思想が日本国内の現実と噛み合わないために発生します。

現実の要請に応じて思想の側が変容するわけですから、真っ当といえば真っ当な変容なのですが、理論至上主義の立場の人種の人達にとっては日本はとても都合が悪い土壌になっています。

朱子学と荻生徂徠と忠臣蔵

この変容イベントの例を一つ紹介しましょう。

江戸幕府における日本国憲法のような立ち位置だったのが儒教をリゴリスティックにした朱子学でした。

と言っても朱子学が素晴らしかったから採用された、というよりは朱子学が江戸幕府にとって都合が良かったから御用学問になったと言った方が正しいでしょう。

なにせお上に逆らうな、主君に尽くすのは素晴らしいことだという世界観で構成されていますから権力者にとっては都合がよろしい。

これで上手いこと現実を運営していたのに、この朱子学の理論にとって都合の悪い事件が起きます。

忠臣蔵です。

朱子学の理屈からいえば「主君に尽くすの素晴らしいことだ」となっているわけですから、忠臣蔵は「忠臣」と語られるほど主君に忠義を尽くした仇討なので絶賛するしかないし、実際にそういう理論を展開した。

けれども江戸幕府にとっては、ある種のクーデターですから「朱子学的に素晴らしいからお咎め無し」とはできないわけです。

そこで登場するのが荻生徂徠です。

朱子学の論理的欠陥に楔を打ち込み、近代的政治思想の下地を作る統治理論を展開します。

その結果として赤穂浪士は切腹を命じられるわけです。

西洋思想史におけるマックス・ヴェーバー的なポシションですね。

余談ですが、近代主義的政治学者丸山眞男は、学徒動員の前に遺稿にするつもりで、この荻生徂徠についての研究論文「日本政治思想史研究」を書き上げています。

日本政治思想史研究

これは現実に起きる問題群に対処するために、思想の方が変容を迫られる日本思想史での恒例イベントですが、漢方という医学の世界でもこれが起きます。

弁証論治と方証相対

中医学の診断には弁証論治という根幹思想があります。

八網、病因、気血津液、臓腑病機、傷寒六経、衛気営血分析を駆使して治療方剤を確定させる、論理的厳密性を重視したスタンスと方法論です。

ところが、こと日本でこの弁証論治の方法論を駆使しようにも現実との不整合が発生します。

そりゃ、まぁ弁証論治で展開される理論が全て正しいわけではなく、完全に机上の理論でしか無い変な部分もふんだんに含んだものですから歴史上の日本の医者は困ったわけです。

そこで荻生徂徠的なポシションとして吉益東洞が、病因病機をブラックボックスにしてしまう方証相対という方法論を展開し出します。

四診の中でも腹診を重視する日本漢方独特のスタイルが形成されていくことになるわけですが、これも「だって現実問題、上手くいかないんだから変えるしかないじゃんね」という現実の要請に対応するための思想の変容です。

※ここでの吉益東洞が一番悩んだ病気は「梅毒」。

以後、漢方を勉強しようとすると日本漢方と中医学のスタンスの違いに必ず遭遇することになります。

理論的相違に困惑し、ネット上なんかでは、どちらかの立場の論者が別の理論的立場を批判するというテンプレート展開が発生するわけです。

面白いのは中医学→日本漢方転向系の人と、その逆の人の両方がいる点ですね。

が、どちらの立場にせよ、そもそもは「現実の要請に対応しようとして生まれた思想(方法論)」がその発展段階で現実とのすり合わせにおいて上手く対処できていない、その理論形成過程が「今」である、と捉えればそんなに罵り合うような話ではない気がする。

個人的には中医学にしても日本漢方にしてもどちらも結構大きな論理的な欠陥があって「この時はどう対応すればいいの?」という疑問に答えてくれないところがある(有り体に言えば回答としての漢方処方が効かない)ので、どちらかの立場から別の立場を徹底的に叩いてるタイプの人はどうも信用なりません。

※実際、吉益東洞は徂徠学の影響を強く受けている模様。吉益東洞の「目に見えぬものは語らない」ポリシーもウィトゲンシュタインっぽいけれど、そもそもにして孔子が「怪力乱神を語らず」というスタンスだったわけである。

それを考えると孔子→儒教学団→朱子学→徂徠学による朱子学の解体、の流れの一つが当時の医学界にも起きたと捉えると孔子(仁)の原点に立ち返っただけともいえる。医は仁術なり。

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